檀ふみさんの思い出


檀ふみさんの思い出

このあいだ「檀ふみ」さんをテレビで見た。



壇蜜さんではないですよ、往年の名女優さんも、六十過ぎだ。

私が高校生のころ、檀さんは慶應大学の学生さんで、すでにテレビに出ていた。

ビデオ録画などない時代だ。

夜の、7時半から始まる、NHKの連想ゲームにはよく出演していらっしゃって、

時間に間に合って、テレビの前に座れた日には、僥倖と言ってもよく、何と美しい女性かと、憧れていた。


ご本人の魅力もともかく、お父さんが作家で、太宰治の友人である。

ちょうどその頃、檀一雄さんが「火宅の人」という私小説、懐かしい言葉だよね、日記のような随筆風の小説を連載二十年ののちに完結、出版した。



大変なベストセラーになって、ボクら、高校生も読んだが、内容が、家庭を棄てて、愛人との恋愛を書いてある。

小説は誇張かと思うが、評論家は真実の人間の葛藤、と褒めるし、
実際、檀一雄さんは、愛人と別れると、オメオメと、奥さんもいる元の家庭に戻ってしまうし、そのお嬢さんがフミさんなのだ。

「ひどい、父親だなぁ」と思うと、健気な黒髪の美人大学生は、一層、我々、高校生の憧憬の対象だった。


その日記的な私小説を、お嬢さんのフミさんはなかなか読めなかった、という、それは日々泥酔、借金、性病まで、告白されているから当然だ。


こうして、またお元気でテレビで再開すると、やはりお美しく、聡明なご様子に、私自身が檀一雄さんの歳、近くになったためか、娘のように抱きしめたくなってしまうのである。


檀ふみさん自身も、エッセイでそんなお父さんについて、好意的に多く書き残している。


檀一雄さんと檀ふみさん、親子の会話が聞こえてきそうな、私小説やエッセイ集を手にとると、昭和の時代ならでは、現在では出版など到底不可能と思う。


昨今、SNSなどで、ずいぶん、露悪趣味でプライバシーが公開されるているが、
作家の内面の深さや、自己分析としての、二十年にわたり、
書き継がれた「火宅の人」の文学だけでなく、家族の記録としての価値に感動せずにはいられないのである。