おでん講釈

おでん講釈

急に寒くなって、カネテツをもらったせいでもなかろうが、暖かい食べ物が恋しくなった。
おでんは、もともと関西の食べ物である。 豆腐に味噌を塗った「田楽豆腐」というのが発祥だ。
そのうち、あっためたコンニャク、大根や芋にも、甘い味噌をつけて食べるようになった。
江戸時代になって関東でも、人気の食べ物になった。 
ところが、味噌をつけるのが、面倒だと、醤油でドバッと煮込むようになった。これが関東炊き。
さてここからが、人間国宝の落語家、桂米朝さんに伺った話なのだが、マユツバで聞いて欲しい。
昭和の頃、東京でうどんでも食べると、醤油煮込みみたいなもので真っ黒だった。
「関東炊き」を関西に持ち込んで、昆布や鰹節の出汁で薄味の関西風になった。
また、それが東京に逆戻りして、「関西風、関東だき」のお店ができて、訳が分からなくなった。
よく米朝さんは、お初天神にあった「常夜燈 」の ( 今の常夜燈は、関西だき、の店となった ) オヤジの、売り唄を紹介していた。
おでんさん、おまえの出所 でしょ はどこかいな、
私の出所は日立の国、水戸様のご領、中山育ち、
国の中山、出る時は、ワラのべべ着て縄の帯締め、鳥も通わぬ遠江灘、
色々苦労を致しまして、大阪江戸堀三丁目、
播磨屋さんの店に落ち着いて、手厚いお世話になりまして、
べっぴんさんの、おでんさんになろうと、朝から晩まで湯に入り
化粧して、ちょいと櫛 クシ 刺して、甘い御髪 (おぐし)のべべを着て、
おでんさんの身請けは、銭 (ぜぜ)次第、
おでん アツアツ
コンニャクの味噌田楽の売り口上、である。 当時コンニャクは水戸の特産品。水戸産のコンニャク芋で、作った田楽を甘い味噌で食べてね〜。
米朝さんはこれがご自慢で、寄席でも落語の途中、披露していた。
関東だきが大阪に来たときに、ドイツの哲学者「カント」と勘違いした京大の学生が、大挙して難波の居酒屋に集まった。
と、落語のオチもつき米朝さん大熱演だった。
これが、私のオデン講釈である、長々と無駄な話し、すみません。
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