漢字不要論
梅棹忠夫先生の著書の写真です
塾では小学生の漢字テストを、日課にしている。
覚えてない生徒さんには、ずいぶんと、小言をいってきた。
今さら、矛盾しているが、もう、漢字にかける時間がもったいないと思い始めた。
自分が最近よく漢字を忘れるせいもある、読みは全然そんなことはない。
つまり、漢字を書けなくてもいいようになった。 こうやってブログを書くのに、スマホ、パソコンでは候補が出てくるのだ。
語彙、言葉数が多いのは大事だが、自分で漢字にする必要はいらない。
韓国やベトナムは漢字を廃止した。ハングルやアルファベットで、韓国語やベトナム語は表される。
日本でも第二次大戦後、作家の志賀直哉らが日本語ローマ字化を唱えている。
もっとまえ明治には、石川啄木が、実際にローマ字で日記を書いている。
言葉にこだわる文学者たちだけに重い物がある。
最近では、民族学の梅棹忠夫先生らが、漢字不要論を主張する。
先生は、現地調査に出た国、民族の言語、十以上を話し、晩年、失明後も、数百本の論文を口述した天才である。
漢字が持つ伝統より、仮名だけの効率に惹かれてたのだ。
先生は、中国の古典にも通じられ、書道家でもあり、漢字文化への想いは強い。
その先生をして漢字を捨てないと、日本語がもたない、情報技術の進歩について行けないと危機感を抱かせる。
また、漢字を廃止した韓国、ベトナムで、文化が廃れたという話も余り聞かぬ。
これからの子どもたちは、数学と英語を勉強しないと、世界では、やって行けない。
グローバル化した仕事で、論理的思考を鍛える数学、コミニュケーションの道具としての英語は必須だ。
また、手近な例では、商品の説明書は、海外のメーカーからの要求で、英語だけの表示が増えるだろう。
電気製品の取説や食品表示は、英語が読めないと分けがわからなくなる。
だが、一方で、私たちの母語は日本語なので、国語力がないと、考えたり、伝えたり、人として基本的な能力が欠けてしまう。数学や英語で自己表現する内容自体がなくなる。
そのためにも、国語の勉強はますます早く始め、読解力、表現力が必要だ。
つまりインプットである読書と、アウトプットの作文に多量の時間をかけて学力をつけなければならない。
漢字を廃止して、読書、作文をもっと幼い頃から指導する。 早く国語力をつけて、或いは、同時に、数学と英語をやる。これが一番だ。
漢字とカナの使い分け、送りがなは、正直のところ、正解がない。 無数の同音異義語の混乱もある。
いちおう、文科省の基準や、辞書では、こうこう、とあるが、十人の大人がNHKニュースを聞いて、原稿用紙1枚でも、同じ文は書けない。
英語をはじめ主な言語では、そんなことはない。誰が聞いて書いても同じ文になる。
中国の作家、魯迅の作品に「 孔乙己(コンイーチー 」というのがある。
科挙、中国の役人の試験でとても難しいが合格すれば大変な名誉で、重用された、を何度も不合格になった酔っ払いが、
自分は「回」の字を四種の筆順で書けると自慢するエピソードで、魯迅は古い中国の制度を批判する。
魯迅はもともと漢字廃止論者で、次のように述べている。
「もし我々がまだ生きていくつもりならば、私は、漢字に我々の犠牲になって貰う外はないと思う。」
漢字のアルファベット表記こそが、新しい中国には不可欠であると考えたのだ。
日本ももう漢字を廃止していい。そうしないともっと大事な学習の時間がなくなる。
グローバリズムに取り残される。
逆説だと、笑わないでいただきたい。
カナ表記で、ドンドン読んで、ドンドン書く。 これをしないと、国語、日本文化が消えてしまう。
もっと漢字の少ない、ブログにしなければいけないなぁ、、、