からからせんべい

からから せんべい

先日のS先生の喜寿のお祝いで、おみやげに、山形の、からからせんべい、をいただいた。
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私は知らなかったが、黒砂糖の味の、おせんべいの中に、オモチャが入っている。
占いの紙が入っているのは、よく見るが、大変かわいい。
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せんべいを手にとって、カラカラ振ると良い音がする。
せんべいにしろ、オモチャにせよ、安価で、何処でも手に入るものだが、組み合わせて、付加価値のある商品に仕上げる。
しかも、どんどん他の業者が、参入するということもない。
地方都市のひとつの生き残りの手本ではあるまいか。
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曖昧な国、日本

昨日は始業式の学校が多かった。 休み明けの課題テストも終わってしまった所もある。
短い三学期ですが、お休み気分を切り替えて、スタートしましょう。
曖昧な国、日本
日本文学研究家のドナルド・キーン先生は、不明瞭なのが日本語です。と述べられている。

その例として、キーン先生は若い日本語学生だった頃、日本人の友達に手紙を書いた。

「私は五日間病気でした」

すると、はっきりし過ぎて日本語らしくないので、こう直すように言われた。

「五日ほど病気でした」

これなら、その後こんな会話しても安心だという。

相手「お見舞いに、行けなくて、すみません」
「いやいや、五日ほどといっても、寝込んだのは三日くらいなんです」

などと、見舞いのお断りなど、相手の立場を残しておくのが美徳とする。

また、小説家などの多くが、女性を描く際「26、7歳の…  。 一見、浅黒く、意外に色白の…」などの表現を好んだ、という。
26歳、色黒、などと決めてしまっては、読者の想像力が湧かないからだそうだ。  読者は小説を読んで、それぞれの女性を思い描く、その余地を残すのが、良い作品だという。
確かに私たちの日常の生活でも、あえて、断定しないことが多いし、相手の顔色を見ながら、「正月にはもう滅多にモチを食べ……ますよね」とか、途中でモチ好きに変わってしまう。
日本は国土が狭い、島国で、農耕民族だ、そのうえ地震・台風などの災害も多い。
集団の和を重んじないと、やって行けない。
主張するには、まず相手の感情を、なだめねばならない。 
だから、終助詞の「〜ね」などで、探りながら、合意形成する。 
また、「安倍さんが良いです!」と主張せずに「安倍さんで良いじゃないですか?」と疑問形にしたり、「安倍さんで良さそうです」と推量や伝聞の形をとる。
要するに、相手の立場を先回りするのだ。
小説の内容もまた、スジのない、随筆のような「私小説」というか、日常雑感が好まれるのである。
…と、私も今日のブログは、オチ無く終わったりしそうでも、いいじゃないですか?
年賀状、ありが
とうございました。
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喜寿お祝いと忘れ得ぬ事

S先生喜寿お祝いと忘れ得ぬ事

昨日は、冬期講習を抜け出して、恩師のS先生喜寿のお祝い会に参加させていただいた。


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S先生は山形県、鶴岡市のご出身で、兵庫県教員として奉職され、県芦、神戸校長をへて、私立H高校長を最後に昨年、引退なさった。
昨日は連休中でもあり、同級生にもたくさんお会いしたが、その朝のプロ野球、星野仙一氏の早すぎる逝去が、話題になった。
まだ、十余年はあるが、我々の世代も身につまされる話だ。
ちょうど、十年前には、同級生のお一人が病気で早逝してしまった。
Tさんは才能溢れる、若手のハープシコード奏者だったが、五十歳を前にして、亡くなった。
同じクラスになったこともあり、帰りの阪急御影駅まで時々いっしょだった。 彼女もS先生の教え子である。 ウイーンに留学している時も、手紙のやり取りをしていた。
帰国してからは、たまにお会いする程度になったある日、入院している、と聞いたが、お見舞いを辞退されていた。
結局、そのまま他界されて、会えなかった。 今、私の手元には彼女のCDが残るのみである。
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昨日も、彼女の話が出て、ひとりが、
「Tさんも、きっとここに来ているよ」
と言った。
ご長寿で健勝なかた、残念にも早逝してしまったひとたち。
その違いはなんだろう?
生きて行く私たちにできるのは、現在の素晴らしい人を賞賛し、
同時に、記憶に残る方の、良き思い出を、たまに語り合い、忘れないことだ。

伝統芸能の世界

伝統芸能の世界

正月は、一日の朝からテレビで「能」の放送がある。
「高砂やぁ〜 」などと唸りながら、お節料理をつまむ。
お屠蘇気分で、昼寝をしたら、ウイーンフィルのニューイヤーコンサート、夜には、歌舞伎の舞台中継がある。
チケットは高いし、だいたい、お正月公演なんて、直ぐに売り切れだろう。
家でゴロゴロ、世界各地のイベントを見物できるのはいいことだ。IT技術の恩恵をうけるのは、若者だけではない。
特に今春は松本幸四郎の、白鸚襲名に伴って、松本家、三代そろって襲名である。
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私もやはり、「いよっ、高麗屋!」コタツの中からお祝いした。
お孫さんの、金太郎が、染五郎に、わずか12歳の中学1年生とのことだ、しっかりしてはるわー。
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白鸚さんはラマンチャの男、最近では、アマデウスなど洋物のミュージカルでも有名だ。
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ラマンチャなんて、年配の方ならどこかでチケットがまわって来て、ご覧になっているのではないだろうか。
なにせ、千回以上公演している、ということだ。
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また、お嬢様の松たか子さんは、テレビドラマなどでもおなじみだ。
昨夜の演目は、勧進帳、菅原伝授とおなじみだったが、ダイジェストで全部見れない!
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仕方なしにユーチューブで、続きを見ることになる。  すると、おススメ、が次々にきてあっというまに一日がくれるのである。
ことほど、伝統芸能の鑑賞は、時間つぶしで、正月にふさわしいのである。

新年のご挨拶−失って得るもの

新年のご挨拶ー失って得るもの

 

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
昨年はもう忙しく、塾の皆さまへの、年賀状も失礼させていただきました。
私事の年賀状も取り止めた。これは年々、喪中やら相手が居なくなったり、やり取りが辛くなってきたからだ。
若い頃は、年賀状の数が増えても、減ることはなかった。 手間がかかるが嬉しいことだ。
メールやSNSで、新年の挨拶をするので、拍車がかかり、本当に年賀状だけの付き合いが残る。
年賀状だけでも、安否確認の意味はあるのだが、「それももう、いいや、」と思い始めたのだ。
中学から高校へ行く時など、多くの友達ともう会えなくなると、寂しいが、4月になると以前の友達は思い出になって、しまう。
ご飯のあとソファに座ると、立ち上がりたくない。 いったん座った暖かみと心地よさは、離れにくい。
仏教では「汝、愛着 (  なんじ、あいじゃく )する勿 な かれ」というが、その通りである。
今の心地良さに浸って居ては、次に進めない。
上の学校に行くには、前の学校は去らねばならない。
友人にしても、千人、二千人と増やせるわけではない。  以前の付き合いを薄めて、新たな友人に移らねばならない。
こんなあたり前のことでも、自分の子どもが就職や結婚で家から出て行くのは、辛く、久しぶりに会うともう一時間でも、一緒に居たい。
しかし、会社や配偶者のもとへ帰さねば、子どもたちの成長はない。
もっと言えば、自分の命さえいつかは失う、そうしないと、次の世代の人が出て来れない。
万事、失って悲しいものだが、失わないと次は得られないのだ。
年始の朝から布団の中でそんな事を考えた。
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