新年のご挨拶−失って得るもの

新年のご挨拶ー失って得るもの

 

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
昨年はもう忙しく、塾の皆さまへの、年賀状も失礼させていただきました。
私事の年賀状も取り止めた。これは年々、喪中やら相手が居なくなったり、やり取りが辛くなってきたからだ。
若い頃は、年賀状の数が増えても、減ることはなかった。 手間がかかるが嬉しいことだ。
メールやSNSで、新年の挨拶をするので、拍車がかかり、本当に年賀状だけの付き合いが残る。
年賀状だけでも、安否確認の意味はあるのだが、「それももう、いいや、」と思い始めたのだ。
中学から高校へ行く時など、多くの友達ともう会えなくなると、寂しいが、4月になると以前の友達は思い出になって、しまう。
ご飯のあとソファに座ると、立ち上がりたくない。 いったん座った暖かみと心地よさは、離れにくい。
仏教では「汝、愛着 (  なんじ、あいじゃく )する勿 な かれ」というが、その通りである。
今の心地良さに浸って居ては、次に進めない。
上の学校に行くには、前の学校は去らねばならない。
友人にしても、千人、二千人と増やせるわけではない。  以前の付き合いを薄めて、新たな友人に移らねばならない。
こんなあたり前のことでも、自分の子どもが就職や結婚で家から出て行くのは、辛く、久しぶりに会うともう一時間でも、一緒に居たい。
しかし、会社や配偶者のもとへ帰さねば、子どもたちの成長はない。
もっと言えば、自分の命さえいつかは失う、そうしないと、次の世代の人が出て来れない。
万事、失って悲しいものだが、失わないと次は得られないのだ。
年始の朝から布団の中でそんな事を考えた。
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